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2012年09月27日

また一から始めた天龍源一郎

 昨日の天龍プロジェクト後楽園は、天龍源一郎の復帰を手荒に後押しするような大会になった。テロリスト村上和成が嵐とのランバージャック・デスマッチの最中に場外でパンチをかます暴挙に出れば、メインで宮本和志を2-0で一蹴した大将代行の鈴木みのるがマイクでリングに上がるように促し、天龍は思わず杖を使わずにリングに上がった。村上なりの、鈴木なりの「頑張ってください!」のエールだと感じたのは私だけではないはずだ。

また、鈴木に完敗を喫した宮本はRevolutionのロゴと同じ書体で尻にkazushiと黄色で描いた黒のタイツ、黒と黄色のシューズで試合に挑み、試合後には天龍プロジェクト入団を直訴。天龍→川田と続く“龍魂イエロー”の継承を誓った。それぞれが自分なりのやり方で天龍にリスペクトを示し、その復帰を心から待ち望んでいるのだ。

 最初から設定されている復帰は今年12月29日の後楽園ホール。あと3カ月ということを考えると…現実的に考えて、万全のコンディションというのは無理のように思う。でも、天龍本人も「いっぺんに10とまではいかいと思うけど“次はもっと頑張ろう”“次に何かある”と思ってやってきた俺の人生だからね」と言い、さらに「どんな奴とやって勝ったとしても納得がいかないと思う。だったらコテンパンにやられた方が」とも。相手に手心を加えられ、温かい拍手の中での“余生のプロレス”など臨んでいない。やるからには現役の第一線。何歳になっても変わらないその姿勢こそが、キャリアを重ねてきたレスラーたちのリスペクトになっている。

 昨日、試合前に天龍はリングの中を軽く走り、手術後に初めて受け身を取った。「パーンと後ろに取れなくて、尻から先に着いちゃう。こんなに下手だったっけと思ったよ」と苦笑した天龍。初めて受け身を取ったのは1976年10月17日の新潟の燕市民体育館。天龍は36年前に戻り、また一から始めている。

投稿者 maikai : 13:33 | コメント (1)

2012年09月26日

全日本の三羽烏と新・三羽烏

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(C)神谷繁美

 本日発売のGスピリッツ第25号を手に取っていただけただろうか? 今日は大仁田厚×渕正信、菊地毅×北原光騎の2つの対談について書こうと思う。大仁田と渕は74年4月にデビューした全日本生え抜き一期生同士。この2人に87年11月の南アフリカ航空機事故で亡くなったハル薗田さんを加えた3人は『三羽烏』と呼ばれた。菊地と北原は薗田さんが亡くなった87年に入門した同期。この2人に小橋建太を加えた3人は『新・三羽烏』と呼ばれた。本当なら小橋にも加わってほしかったのだが、小橋は欠場中の身。普通のテレビ番組には出演している小橋だが、かつての同期と専門誌で会う以上はリングに上がっているバリバリの小橋建太でいたいという本人の気持ちを尊重した。

 今回の全日本特集には『毒あり笑いあり新事実あり!流転の王道40年を読む』というサブタイトルが付けられているが、同じ釜を食った同期生が顔を合わすと、まさに毒あり笑いあり新事実あり! それぞれの対談を取材していて、世田谷区砧の旧・全日本合宿所の応接間で雑談しているような感覚に襲われた。

大仁田と渕、菊地と北原の両同期生方に共通しているのは、エリートではなく一介の新弟子として入門してきた叩き上げであること。彼らが若手時代の全日本はトップに入るエリート組と、それを盛りたてる叩き上げ組にキッチリと分かれていたから、若き日の彼らが時に将来に不安を覚えたり、絶望した話にはホロッとくるものがあった。この2つの対談から、彼らの楽しくもほろ苦い青春を感じ取ってもらえたら幸いだ。

投稿者 maikai : 12:31 | コメント (0)

2012年09月25日

Gスピ第25号情報!レボリューション同窓会

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(C)原悦生

 明日9月26日(水)に発売されるGスピリッツ第25号の総力特集『全日本プロレス創立40周年記念スペシャル』から、今日は天龍源一郎×川田利明×和田京平のレボリューション同窓会のこぼれ話をお届けしよう。

 この3人の顔合わせはよくあるようで、実は最近では珍しい。京平レフェリーは天龍プロジェクトのリングで裁いているが、天龍と川田が顔を合わせたのは、2010年8月15日の新日本の両国国技館以来。この時のカードは天龍&川田&タイガーマスクvs長州力&スーパー・ストロング・マシン&AKIRAだった。ちなみに、この試合から天龍は体調を崩し、川田はこの試合が今のところラストマッチになっている。

 なぜレボリューション同窓会を企画したか? なぜ、そこに和田京平レフェリーがいるのか? 昭和の末期に天龍革命=レボリューションを起して全日本の選手たちに意識改革を迫ったのが天龍であり、その天龍が全日本を去った後の超世代→四天王時代の平成・全日本の黄金期を呼び込んだひとりが天龍同盟のメンバーだった川田。そして、天龍革命から四天王までの全日本を黒子として支えたのが京平レフェリー。この3人が集うことで昭和と平成の全日本がつながるというのが取材の主旨だ。

 話題は川田も知らない天龍×京平の昔話から、「天龍の全日本離脱後の川田のファイトは天龍のマネだったのか!?」まで多岐にわたった。まだ天龍が全日本復帰以前のWAR時代に川田を呼んで久々に飲んだ時に“あること”でダメ出しされた等のプライベートな話も…。天龍が川田をちゃんと立てつつも、昔と変わらない師弟関係が垣間見えるところにも注目してほしい。

 明日は天龍プロジェクトが後楽園ホールで『R-3』を開催する。Gスピリッツ第25号を買ってから、後楽園ホールに行こう!

投稿者 maikai : 11:10 | コメント (2)

2012年09月24日

船木vs諏訪魔に見た全日本の新しいカラー

 昨日、横浜文化体育館で行われた王者・船木誠勝vs諏訪魔の三冠ヘビー級戦は凄かった。8・26大田区で船木が秋山から三冠を奪回した4分37秒の短期決戦も凄かったが、それとは違った凄さがあったのだ。

 ハッキリ言って、両雄ともに“いわゆるプロレス”が巧いわけではない。試合の組み立てが緻密だったり、受け身やロープワークが美しかったり、技が華麗だったり、ファンの心理を読んで…ということに長けているわけではない。馬場さんの時代からの全日本プロレスでは、そうした要素を備えているのが一流レスラーとされていたのだが、船木と諏訪魔はそこを突き抜けたところで勝負していた。

 何が凄かったかというと、諏訪魔のタフさと火事場の馬鹿力、船木の「三冠王者の自分が全日本を背負っていかなければいけないんだ」という揺るぎない覚悟だ。最後、諏訪魔は事実上のKO負けだったが、船木の掌底や蹴りの猛攻に一歩も退かず、「もう無理だろう」というところでぶん投げる強さを随所で発揮した。プロレスのセオリーが通用しないナチュラルな強さが諏訪魔にはある。そして船木の「自分が全日本のトップ」という意識と責任感、プロレスへののめり込み方は頼もしさを感じる。船木は「自分は武藤さんの膝の代わりです」と言った。「膝の代わりに俺がいます。武藤さんが1ヵ月に1試合、2ヵ月に1試合になってもいいんで、その間は俺が絶対守ります」と言った。こんなに迷いがなくプロレスに夢中になっている船木は、10代のヤングライオン時代以来かもしれない。

 結果、昨日の三冠戦も船木vs秋山同様に従来の全日本の三冠戦とは異質なものになった。船木vs秋山がそうだったように昨日の試合も船木と諏訪魔でしかできないものだったと思う。そして、もうひとつ書いておきたいのは試合のスタイルや中身がまったく違うにもかかわらず、平成の四天王プロレスと同じような後味を感じたこと。それはきっと船木と諏訪魔が邪心なくピュアな闘争心で体と心を全力でぶつけ合ったからだろう。闘いの精神は四天王プロレスも昨日の船木vs諏訪魔も一緒なのだ。

 船木誠勝というプロレスと総合格闘技のハイブリッドな王者が誕生したことによって、今の全日本には馬場・全日本でもない、この10年の武藤・全日本でもない、まったく新しいカラーが生まれたような気がする。

投稿者 maikai : 10:33 | コメント (1)

2012年09月22日

感激!15年半ぶりの佐藤昭雄さん!!

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 9月26日に発売されるGスピリッツ第25号の総力特集『全日本プロレス創立40周年記念スペシャル』で遂に佐藤昭雄を取材することができた。全日本の歴史を語る上で、裏方で手腕を振るった佐藤は重要人物。16歳でジャイアント馬場の弟子として日本プロレスに入門し、新弟子時代から馬場さんのプロレス哲学を植えつけられている。そして長年のアメリカ生活の中でプロレスの創り手としてのノウハウを学び、81年から84年には全日本のブッカーを務めた。

 ブッカーになった佐藤は若手の育成に力を注ぎ、全日本の伝統でもあった年功序列のマッチメークを廃止した。そうした環境から越中詩郎、三沢光晴、ターザン後藤、冬木弘道、川田利明らが育った。Gスピの読者の方ならご存じだと思うが、彼らはいずれも影響を受けた人物、尊敬する人物に佐藤の名前を挙げる。若手の育成もそうだし、その他、諸々の細かいところで全日本を大きく変えた功労者なのだ。佐藤昭雄の教えは全日本のみならず、日本マット界のあちこちに受け継がれている。インディー団体もそうだし、冬木を通して新日本でも邪道&外道がちゃん受け継いでいる。私にとっても尊敬するプロレスの先生。リング上の技術的なこと、サイコロジーからマッチメークの仕方等々…“プロレスそのもの”をレクチャーしてくれた人である。

 89年にはレスラー兼日本進出コーディネーターとしてWWF(現WWE)にスカウトされ、その後はWWF極東地区代表に就任。95年夏にWWFを離れるとWARにプレーイング・マネジャーのシンジャ(信者)として上がると同時にLLPWのアドバイザーに。96年2月にはIWAジャパンに専務として迎えられ、同年10月にはインディー統一を目指した日本プロレスリング共同機構FFFのコーディネーターに就任。だが、97年1月にFFFは親会社の経営不振により旗揚げを目前に崩壊。これと同時に佐藤もプロレス界をきっぱりと引退した。

 ここから先は私的に書かせてもらう。佐藤昭雄ではなく、昭雄さんと表記させてもらう。97年1月当時、私は週刊ゴングの編集長だった。昭雄さんのカンサスシティの自宅に本を毎週送っていたが、ある時、昭雄さんから「プロレスからスッパリと身を引くことにしたよ。もうゴングを送ってくれなくていから。じゃあ、元気でね」という電話。そこから今回の取材まで15年半以上も交流は途絶えた。その場の思いつきで何かを言う人ではないから、引退の決意が固いことは理解できたし、「スッパリと身を引く」とは業界との完全決別の意味だと解釈した。その気持ちを尊重すると、私にはとても電話することなどできなかった。

 実は妻とまだ結婚する前…というよりも、まだ付き合う前の彼女と彼女の友達、そして昭雄さんの4人で飲んだことがあった。その時、昭雄さんに「小佐野君たち、結婚すれば?」と言われたことがある。それがずっと頭に残っていたから結婚した時には報告として手紙を送ったが、返信はなかった。また、あるインディーの関係者が協力を仰ごうと電話をしたら、家族の人に「もうプロレスとは関係ないので…」と取り次いでもらえなかったという話も耳に入ってきた。だからもう2度と、昭雄さんと接する機会はないと思っていた。

 そうした状況が続いたなかで07年にラスベガスのカリフラワー・アレイクラブに出席したノアの仲田龍ちゃんから「珍しい人が来てたよ。佐藤昭雄さん! 全然、変わっていなかったよ!」と聞いてビックリ。ある程度の年月を経て業界と接触を持ってもいいと心変わりしたのだろうかと淡い期待が生まれたが「いや、元気だったけど、今のプロレスのことは全然知らなかったよ。ああいう同窓会には出席しても、今のプロレスとは関わりを持つ気はないみたいだよ」と龍ちゃん。それを聞いて、やはり接触を持ってはいけないような気がして、またまた年月が経って今日まできた。

 そして今回の特集。Gスピの読者からも「佐藤昭雄を取材してほしい」という声が多いと聞いていただけに、ダメもとで龍ちゃん、ノアの海外コーディネーターのケン平山君に仲介してもらい、15年半ぶりに昭雄さんと連絡を取ることができた。

「小佐野君、元気? 奥さんも元気なの? 手紙もらったよね。いずれ日本に行くこともあると思って、そのままにしていたんだけど、行くこともなく15年経っちゃったな(苦笑)」と昔と何ら変わらない昭雄さんの声。取材の件を切り出すと「ここで断ったら、そっちの顔が立たないだろ? しばらく日本語を喋ってないから…喋る稽古をしておくよ」と嬉しい言葉。そして国際電話で取材すること実に4日! 短い時で2時間、長い時には4時間話していたから、合計時間は10時間を越えた。それだけ様々な引き出しを持っている人なのだ。久しぶりの佐藤昭雄プロレス教室は改めて勉強になった。全日本ファンに限らず、本当に多くのファンの方に読んでいただきたいと思う。

PS.写真はカリフラワー・アレイクラブでの親友J・J・デュランとのツーショットです。

投稿者 maikai : 19:19 | コメント (4)

2012年09月21日

Gスピリッツ第25号は全日本40周年スペシャル!

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 お待たせしました! 9月26日(水)発売のGスピリッツ第25号の特集は『全日本プロレス創立40周年記念スペシャル』です。これまでGスピでは角度を変えながら何度も全日本特集をやっていますが、今回の全日本プロレス設立~馬場・全日本~武藤・全日本の総力特集は、決定版だと自負しています。私自身が取材した15年ぶりの佐藤昭雄さんなどのこぼれ話は追って綴っていきます。本日は表紙と目次をお届け!

【第一部 嗚呼!郷愁の昭和・全日本】

<レボリューション同窓会>
天龍源一郎×川田利明×和田京平

<同期対談>
三羽烏=大仁田厚×渕正信
新・三羽烏=菊地毅×北原光騎

<ロングインタビュー>
15年ぶりのマスコミ登場!佐藤昭雄
キム・ドク
谷津嘉章


【第二部】
日本テレビとジャイアント馬場
~独立宣言の裏側で何が起きていたのか~
証言:原章(元『全日本プロレス中継』プロデューサー)


【第三部 新生・全日本の「軌跡」と「未来」】
武藤敬司×カズ・ハヤシ


★実録・国際プロレス
将軍KYワカマツ(若松市政)

★アリーバ・メヒコ 
“仮面の魔豹”カネック 初めて明かされる空白の2年間

★ミル・マスカラスが「悪魔仮面」と呼ばれた時代
新章突入!謎に包まれたテキサス遠征

投稿者 maikai : 00:04 | コメント (2)

2012年09月17日

リボンの騎士たち

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 昨日はフリー生活9年目突入、51歳と11日目にしてお勉強の日。サムライTV『速報!バトル☆メン』でアイスリボンの志田光、成宮真希、それに崖のふちプロレスの松本都(番組に乱入!)と出演した。サムライTVの視聴者ならご存知の通り(?)私にとってアイスリボンは苦手な分野。もちろん試合は観たことがあっても、それはいつも他団体のリング。実際にアイスリボンの興行を取材したことがないから、空気感を実感できていないのだ。加えて、かつてのカリスマのさくらえみのイメージが強烈過ぎることも大きい。

 ただ、スマッシュのTV解説をやっていたので、志田が朱里と組んでの紫雷姉妹とのタッグマッチや朱里とのシングルマッチなどを喋っているし、今年1月のブル中野引退興行のメインでの志田vsゆずポンが印象に残っていた。その志田は昨年12月25日に藤本つかさからICE×60選手権を奪取してから現在まで、さくらがいなくなったアイスリボンのエースとして頑張っているが「さくらさんが辞めたのは逆にチャンスだと思いました!」とキッパリ。スマッシュに出ていた去年の5~6月から比べたらグッと頼もしくなった。9・23後楽園では“外敵”の紫雷美央を迎えての防衛戦だ。

 成宮は、ブル中野引退興行での水波綾とのギロチンドロップ合戦が印象に残っている。9・23後楽園では、藤本つかさ&星ハム子とトリオを結成してGAMI&桜花由美&水波とのアイスvsWAVE対抗戦に出陣する。松本はかなりクセのあるキャラで、若い時のさくらのようなカンジ。9・23後楽園での高木三四郎との崖のふちvsDDT対抗戦では、あの高木大社長相手にどんなやり取り(攻防)を見せられるか!?

私の場合、どうしても例えが男子プロレスになってしまうが、90年春に天龍源一郎が退団した時にジャイアント馬場すらも全日本存亡の危機を感じた中で、三沢らの若い世代が「鶴龍プロレスに負けてなるか!」と異常なまでの頑張りを見せて、そこから四天王プロレスが生まれて隆盛をもたらした。アイスリボンも今、確実にさくらカラーから脱却している印象を受ける。そして新たなアイスリボンを創っていこうという気概を3人のリボンの騎士たちから確かに感じ取れた。

投稿者 maikai : 11:00 | コメント (0)

2012年09月16日

桃栗三年柿八年

 私が日本スポーツ出版社を退社したのは2004年9月15日。会社員という生き方を辞めて丸8年が経過、今日から9年目に突入した。その間、本当にいろいろなことがあった。そこには感慨もあるが、過去に思いを馳せるよりもリアルタイムの自分を客観的に見つめることが大事だと思っている。生きているのは過去ではなく、今現在だからだ。

 過去の肩書やキャリアは私にとって財産だが、過去の自分に胡坐をかいたら終わりだと思ってやってきたし、フリーならではのフットワークを活かして、様々な団体の現場に取材に行ってキャリアの上積みをしてきたことが今日につながっていると思う。今日は2つの出版社の原稿を書いた後、夜はサムライTV『速報!バトル☆メン』に出演する。アイスリボンの志田光、成宮真希と喋るのは初めてとなるが、そうしたちょっとしたことが大事なのだ。あの時から8年経過した今の自分の状況に感謝したい。

 桃栗三年柿八年…芽が出てから実を結ぶまで桃と栗は三年、柿は八年かかる。つまり、何事も成果が出るまでにはそれなりの年数がかかるという意味だが、ちょっとは柿になれたかなと思う2012年9月16日だ。

投稿者 maikai : 11:36 | コメント (0)

2012年09月13日

菊池孝さんの遺作です

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 5月11日に創刊された小学館のDVD付きマガジン『ジャイアント馬場 甦る16文キック』は明日9月14日発売の第5号で完結する。この最終巻のDVDに収録されているのは、馬場が「俺の生涯のベストバウト」と言っていた1967年8月14日の大阪球場におけるジン・キニスキーとのインターナショナル・ヘビー級選手権、73年10月9日の蔵前国技館におけるザ・ファンクスvs馬場&鶴田友美のインターナショナル・タッグ選手権の2試合だ。

 そして、この1冊は9月1日にお亡くなりになった菊池孝さんの遺作でもある。菊池さんが緊急入院されたのは、入稿を終えた3日後の8月8日だった。マガジン編の連載記事『ジャイアント馬場の足跡』は全日本旗揚げから馬場さんが亡くなるまでをまとめあげ、馬場vsキニスキーの解説は、試合そのものだけでなく背景や当時の日本マット界の事情、世相も織り交ぜた読み応えあるものだし、ジン・キニスキーのプロフィールもエピソードを交え、記録だけでなく人柄が伝わってくる。決して体調がいいとは言えない状態での執筆だったはずだが、そのクォリティー、魂のこもった原稿からは改めて菊池孝というプロレス評論家の実力、年輪、凄みを知らされた。

 この『ジャイアント馬場 甦る16文キック』は馬場元子さん監修のもと、菊池さんの総合プロデュースによって私も参加させていただきました。また1959年の日本プロレス『第1回ワールド大リーグ戦』から45年近くリングサイドで写真を撮り続け、プロレス・カメラマンの大御所として知られた故・木村盛綱さんの写真が多数使用されたことも嬉しいことでした。このような機会をくださった元子さん、菊池さん、カメラマンの山内猛さん、そして編集人の小学館・小林信一郎さん、ありがとうございました。

 最後に、多くの方に菊池さんの遺作を読んでいただきたいと思います。菊池さんの記事を呼んだ上で馬場vsキニスキーの映像を観たら…きっと、あの時代に思わずタイムスリップするはずです。

投稿者 maikai : 14:37 | コメント (2)

2012年09月09日

中之上靖文の初勝利

 その瞬間、後楽園ホールに大歓声が起こった。GAORAのテレビ放送席の鍵野威史アナウンサーと私も思わず「やった!」と声を上げた。鍵野アナウンサーの眼が少し潤んでいるようにも見えた。2010年1月2日にデビューした中之上靖文のシングル初勝利はそれほどの感動があった。なにしろ2年8ヵ月かかったのである。そして、ようやく白星を手にした相手は元三冠ヘビー級&アジア・タッグ王者の浜亮太なのだ。

 とにかく勝てなかった。後輩の曹駿、征矢匠(引退)にも負けてしまった。後楽園ホールに通う全日本ファンは、それでも黙々とファイトする中之上を観てきたから、昨日の勝利の瞬間、我がことのように喜んだのである。2年8ヵ月はシングル初勝利までの最長記録。若手時代に『目指せ1勝!』の横断幕が張られた川田利明でさえ1年3ヵ月だったし、それまでの記録は越中詩郎の1年11ヵ月だった。

 ちなみに71年11月にAWAから国際プロレスにやってきたケン・イーツのキャッチフレーズは“500連敗の男”。70年からパッタリ勝てなくなり、遂に500連敗の記録を作ってAWAのウォリー・カルボ会長から記念の(?)トロフィーと賞金(?)300ドルを贈呈され、これに気をよくして突然、連勝を始めたという触れ込みでの来日だった。

 それはさておき、中之上の評価すべき点は、大技に走らずに昔の若手のような基本的な技で試合を組み立てるファイトを根気よく続けてきたことだ。ファイトがパターン化して「負け慣れしちゃったかな?」と心配した時期もあったが、真田聖也にきっちりと対応できるぐらい着実に成長していた。本当にあとは結果を待つだけの状態だった。

 昨日、戦った浜は同期。正確に言えば、中之上の方が入門では3ヵ月先輩になる。中之上は08年1月の武藤塾オーディションに合格して同年4月に入門。その3ヵ月後の7月に浜が入門してきた。大相撲でプロの格闘家として経験がある浜はわずか4ヵ月後の11月にデビューしたが、中之上は怪我もあって、デビューまで1年9ヵ月もかかってしまった。初白星を献上してしまった浜だが、その苦労を間近で見てきた同期生としては悔しさの一方で、感慨深いものがあるのではないか。

 ある意味で中之上は最高に幸せなプロレスラーだと思う。これほど勝つ喜びとその重さを知り、負ける悔しさを知っているレスラーはいないと思うからだ。これは中之上だけの財産。この1勝を胸に、さらなる精進を続けて、いろんな意味で大きなプロレスラーになってほしいと思う。シングル初勝利、おめでとう!

投稿者 maikai : 12:35 | コメント (4)

2012年09月03日

菊池孝さんに哀悼の意を表します

 プロレス評論家の菊池孝さんが9月1日午前4時46分にお亡くなりになりました。大阪新夕刊でプロレス取材を開始したのは1960年。半世紀以上もプロレスに携わり、生涯現役でした。

 私が初めてお付き合いさせていただいたのは月刊&別冊ゴングの大学生アルバイトだった32年前のこと。当時の重要な仕事のひとつに原稿取りというのがありました。今だったら原稿もパソコンでのやり取りが普通ですが、パソコンはおろか、まだFAXも普及していない時代でしたから、執筆者のもとへ原稿を受け取りに伺わないといけない。その際に執筆者の方々から聞かせていただく話が後々、自分の財産になるのです。初めて菊池さんのご自宅に伺った時は「国際プロレスのテレビ解説者の菊池さんだ!」とファン気分で密かに興奮していたことを思い出します。

 菊池さんは締め切りも原稿の分量もきっちり守り、万年筆で書いた文字も美しく、編集者にとっては最高の執筆者でした。当時、ハタチ前後の若輩者の私でしたが、ご自宅にお伺いすると「上がっていけよ」と自室に招いて夏は冷たいジュース、冬は温かいコーヒーを出していただき、さらに「どうぞ」とタバコをすすめられ、そして昔話をしてくださる。菊池さんの原稿取りは当時の私にとって楽しみな仕事でした。

 よく、「昔のプロレス記者はサムライだった」と言いますが、菊池さんはまさにサムライ。原稿が几帳面な一方で飲む&食うはレスラー顔負け。まず食事をして、クラブに飲みに行き、そこからカラオケに行ってガンガン歌い、明け方になると「そろそろ腹が減っただろ?」と焼肉屋さんへ。そして締めに朝ごはんの(?)ラーメンを食べるという菊池さんならではの黄金コースを体験させてもらったレスラー、マスコミ関係者は少なくないはずです。

 仕事に対する姿勢ももちろんサムライ。人当たりはソフトだけれども気骨ある人で、心によしとしないことは歯に衣着せずに口にも文章にもする人だったし、好き嫌いがハッキリしていて「○○と××の取材はしない!」というご自身の中でのルールを持った人でした。レスラーが記事にケチをつけてくると「そっちは戦うプロだが、こっちは見るプロ、書くプロなんだ!」という凛とした姿勢で相対していました。

 近年は体調がいいとは言えませんでしたが…それでも極力、会場に足を運ぶ。菊池さんが会場に足を運ぶなら、若い私が行かないわけにはいきません。その姿勢は04年9月からフリーになった私にとって鑑でした。それこそ「見るプロ」なら、なるべくナマで見る。それを背中で教えていただきました。68年から44年も様々な媒体で活動されてきた菊池さんは「フリーでも頑張ればやっていける」という道標になった人物です。プロレスにフリーライター、評論家というポジションを築いてくれた先駆者です。この業界も変わってきましたが、それを守るべく私も精進したいと思います。

 私はこの春から、監修=馬場元子さん、総合プロデュース=菊池さんという形で小学館から発行されているDVD付きマガジン『ジャイアント馬場 甦る16文キック』で一緒に仕事をさせてもらっていました。7月16日、小学館の会議室で9月14日に発売される第5巻(最終巻)のDVDに収録する馬場vsジン・キニスキーの伝説のインター戦(1967年8月14日=大阪球場)の映像を一緒にチェックしたのが菊池さんとお会いした最後になってしまいました。最後のお仕事を一緒にできて光栄です。これまでありがとうございました。合掌。

投稿者 maikai : 17:14 | コメント (3)