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2010年06月27日

故人を偲んで…

 昨日はまずラッシャー木村さんのお別れ会へ。木村さんの後輩のアニマル浜口さん、日本プロレス→東京プロレス→国際プロレスの初期に一緒だった北沢幹之さん、カブキさんらの縁ある人たちが列席。浜口さんとジャパン・プロレスの社長だった大塚直樹さんが久々に談笑している光景は、かつてジャパン・プロを担当記者として取材していた私にとってはちょっとジーンとくるものだった。また、長崎在住の阿修羅・原さんが本名の原進としてお花を出していたのも嬉しいことだった。

 本当なら、そのままディファ有明に残ってノアのシリーズ開幕戦を取材するところだが、そこから飯田橋で風間ルーちゃん(風間ルミ)がやっている豚菜キッチン『絆』へ。かつてのプライベートな飲み仲間による三沢光晴を偲ぶ会が催されたのだ。実は1年前から企画されていたのだが、みんなのスケジュールが合わずに延び延びになっていて、ようやく昨日、実現したというわけ。

 ルーちゃん、トッコちゃん(イーグル沢井)がテキパキと料理を作り、三遊亭圓楽師匠夫妻、ダチョウ倶楽部の肥後さん、竜ちゃん(上島竜兵)の奥さんのひかるちゃん、元一世風靡の武野功雄さん、元松竹梅の梅ちゃん(梅村達也)、カブキさん、穂積詩子、半田美希、鮨處おざわの大将、日刊スポーツの川副宏芳さん、元ビッグレスラー編集長で、その後は全日本の広報やレジャーニューズの東京デスクもしていた藤沢孝さんらと思い出話に花を咲かせた。途中で誰かが飾っておいた三沢さんの写真を倒してしまい「俺も話の中に入れろよって怒ってるぞ!」なんていう一幕も。

 同窓会と同じで、昔の仲間が集まると、一瞬にしてその当時にタイムスリップしてしまう。改めて、いい季節を一緒に過ごしたんだなあと実感させられた。本当なら、ここに本人もいて昔のように馬鹿っ話をしたかったが、こういう機会を作ってくれたみっちゃんに感謝したい。

みんなが三沢光晴と共有した時間を懐かしむと同時に「こうして生かされている者は思いっきり生きて、また笑顔で再会しよう!」と気持ちを新たにした大切なひとときだった――。

投稿者 maikai : 12:37 | コメント (3)

2010年06月21日

TAKA is coming…

 TAKAみちのくが昨日の後楽園ホール大会で昨年7月26日の荒谷望誉の引退試合以来、11ヵ月ぶりに全日本のリングに上がった。私がジーンときたのは、試合もそうだが、試合前のTAKAタイム。恒例の大和タイムにVMが乱入して横取り、そこにTAKAが太陽ケアを伴って登場! そう、あのRODタイムが甦ったのである。

 RODとはTAKAが仕切っていた外国人ユニット。03年の秋にTAKAがガイジンの司令塔に就任し、同年の最強タッグから正式にRODは始動した。言葉が通じないガイジンの代弁者となって彼らの人間性までファンに面白おかしく伝え、当初はヒールだったRODがいつしかベビーフェースに。特に故ジャマール、ディーロ・ブラウンの人気はTAKAの力が大きかった。06年9月、RODはVMに敗れて解散してしまったが、RODこそ初期の武藤・全日本のパッケージ・プロレスに最も貢献したユニットである。

 久々のTAKAのマイク・パフォーマンスはやはり一級品。もうRODは存在しないが、TAKA&ケアにRODを思い出したファンも多いはず。最後の掛け声は「ウイ・アーROD! ブイヤー!!」ではなく「ウイ・アー・ゼンニッポン ブイヤー!!」になったが、これはTAKAのアドリブ。

「今の俺は全日本のどこにも属してないし、最後、何て締めていいかわからなかったんで。まあ、RODのところをゼンニッポンにしただけなんですけどね(苦笑)。久々だから緊張しましたよ」とTAKA。

 TAKAとケアの友情がある限り、RODは不滅だ! そうだよね、ジャマール、ギガンテス、グラジ。

投稿者 maikai : 12:31 | コメント (1)

2010年06月18日

自信を持って…猛虎伝説の最深部に再び迫る!

Gスピ16号.jpg

 6月23日(水)発売のGスピリッツ第16号の主な内容は以下の通りです!

【回想】
真説タイガーマスク
新間寿/木村健悟/山崎一夫

“格闘家”佐山聡の実像
藤原敏男/ビクトル古賀

【検証】
サトル・サヤマのEMLL時代
<証言>トニー・サラサール/アルフォンソ・ダンテス/リンゴ・メンドーサ/サングレ・チカナ/アメリコ・ロッカ/エル・サタニコ

“センセーショナル”サミー・リー
英国マットを席巻した「謎の10ヵ月」を追う

試合&プライベート用[牙付き]マスク

【アントニオ猪木デビュー50周年記念特別企画】
辻仁成が「ACACIA」と「猪木」を語る

カンジ・イノキのアメリカ武者修行

【クローズアップ】
日本プロレス「ゴッチ教室の全貌」

ユニバーサル・レスリング連盟

【好評連載】
ドクトル・ルチャのアリーバMEXICO=ドス・カラス&エル・シコデリコ

実録・国際プロレス=菊池孝(後編)

投稿者 maikai : 10:41 | コメント (1)

2010年06月17日

2代目タイガーマスク

 週刊プロレス1521号の天龍源一郎ミニアルバムに続いて、昨日発売の1530号の2代目タイガーマスク・ミニアルバムにも起用してもらった。考えてみれば、現在の週プロ編集部で2代目タイガーの取材をしているのは宍倉清則顧問だけ。私のかつての取材経験を活かしてもらえば光栄というものだ。

 担当したのは、まず2代目タイガー誕生秘話。これはハッキリ言って、お手のもの。2代目タイガーは馬場さん、当時の新日本プロレス興行社長の大塚直樹氏、そして週刊ゴング(というよりも竹内宏介氏)の仕掛けと言っても過言ではないからだ。

 ゴングは週プロに続いて84年5月に週刊化されたが、苦戦が続いていた。特に当時注目の第一次UWFとのパイプは週プロの方が深く、UWFから撤退した新間寿氏とのラインが強かった週刊ゴングはむしろ敵視されているような状況だった。また、佐山聡個人とは何も問題はなかったものの、当時の佐山のマネージャーのS氏とも折り合いが悪く、7月23日&24日の『UWF無限大記念日』における佐山のザ・タイガーとしてのプロレス復帰戦はS氏から取材拒否を食らって、写真撮影も後楽園のバルコニーからのみ。対抗策として週刊ゴングではザ・タイガー復帰前日にメキシコから密かに帰国した三沢光晴にマスクを被せた2代目タイガーマスクのスクープ写真を表紙にした。以後、2代目タイガーには折りに触れて助けられたものだ。

 だが、この2代目タイガー時代は三沢さんにとって苦悩の時代だったとも言える。体格が違うのに常に初代の佐山と比較され、タイガーマスクというイメージを守るために自分が本来やりたいファイトを抑えなければならなかった。

「あの頃は自分のことに必死で、相手を考えてる余裕もなかったからね。タイガーマスクって中途半端なキャラじゃん。体重的にもジュニア・ヘビー級なのか、ヘビー級なのかって微妙な時でもあったしね」とは、後年になって聞いた三沢さんの言葉。

 またリングを降りても生活の大半はマスクを被ったままで、普段は面白い人間なのに、インタビューになるとタイガーのキャラがあるから、ハッキリ言って面白い話は聞けない。

「だから自分を抑える部分も大変だったよね。ぶっちゃけ言えば、トークショーとか行ってもさあ、喋れないわけじゃん、自分で。ねえ! あのキャラは喋れないわけよ。自分でつまんねぇと思いながら喋ってるわけ(苦笑)。自分がつまんないんだもん、お客が聞いててもつまんねぇだろうなって。サイン会は別に書いてるだけだからいいけどね。でも、そのサインもほら、作られたサインだから“俺のサインでもねぇし!”って(苦笑)」

 だが、リング上でも外でも様々な制約を受けて悩んだ時代があったからこそ、その後、素顔になって開花したのだと思う。そのあたりはカブキさんにインタビューした。カブキさんの話の中には“マスクマンはどう表現すべきか”などの職人ならでは視点もあるので、ぜひ読んで頂きたい。

 そして6月23日(水)には、いよいよGスピリッツ第16号が発売になる。こちらは初代タイガーマスク特集の第2弾。明日、表紙を大々的に公開します!

投稿者 maikai : 14:01 | コメント (3)

2010年06月14日

6月13日

 昨日は長い1日だった。まず12時からDDTの後楽園ホール大会。今、DDTは7・25両国大会に向けて一直線。DDTはライブで観るのが一番だから何が起こったのかは細々と書かないが、関本大介が石川修司を撃破したことによって両国のメインは関本vsHARASHIMAのKO-D無差別級選手権に決定。試合前には飯伏幸太vs丸藤正道のドリームマッチも発表された。その他、大会の流れの中で自由が丘6人タッグ王者=KUDO&ヤスウラノ&アントーニオ本多、UWA世界6人タッグ王者=佐藤光留&石井慧介&ヨシヒコ、日本海6人タッグ王者=ケニー・オメガ&りほ&6号による6人タッグ統一3WAYマッチ、高木三四郎&澤宗紀&中澤マイケルvsヤゴウ公国軍、ポイズン澤田JULIE&中西学vs松永智光&鶴見五郎が決定。すでに決定しているディック東郷vsTAJIRI、決定気味(?)の男色ディーノvsHG&RGと合わせて、楽しいカードが次々に決まってきた。この先、どんな趣向、サプライズがあるか楽しみだ。

 関本が石川を下したのを見届けて、次はディファ有明の三沢光晴一周忌興行へ。私用を済ませてから駆けつけたため、会場到着は17時過ぎ。第3試合の金丸&平柳vs谷口&青木の終盤だった。大会前には黙とうが行われたというが、大会を途中から観た限りでは、選手たちは普段通りの自然体のファイト。彰俊が、秋山が、潮﨑が天を仰ぐシーンはあったものの、雅央はいつも通りのマサオ・ワールドを展開していたし、誰も三沢さんの技を使うことはなかった。そこには現在進行形のファイトを天国の三沢さんに観てもらいたい、この一周忌が新たな始まりであるという選手それぞれの想いが感じられた。

「一周忌が終わったので明日から第一歩です。反面教師でもいいから生きざまを見てほしい。いつどこでどうなっても悔いのないように最後の最後まで逃げずに頑張っていきましょう」と語ったのは三沢さんの最後の対戦相手になった彰俊。

 メインではメモリアルマッチとして秋山&小川vs丸藤&潮﨑が行われて、潮﨑が小川を押さえた。試合後、私は敗者チームの話を聞きに行ったが、小川は無言で控室へ。小川はこの1年、三沢さんに関して無言を貫いている。これはこれで小川らしいと思う。

 秋山は「最近は三沢さんがいるところ(=ポジション)に自分がいることが多いけど、俺は三沢さんの役割が出来ないから難しいね。難しいけど、俺なりにはやっているつもりです。俺がやってきたこと(10年前のノア旗揚げ2連戦で三沢、田上、小橋の上位3人を撃破してトップ宣言)を潮﨑たちがやってくれればノアの未来には一番いいことだと思う。一周忌までっていうのは、三沢さんにおんぶにだっこっていう気もするんで、そうじゃなくて安心してゆっくり出来るように、若い奴らにドンドン出てきてもらって、俺はそういう奴らの最後の砦になるように。砦があんまり安っぽいと、伸びる奴も伸びなくなると思うんで」と、今後の自分のやるべきことを決意として口にした。

 さて、三沢一周忌興行が終わるや、後楽園ホールにUターンして『ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア』決勝戦。会場に着くと、すでにセミ前の金本&AKIRAvsケニー・オメガ&タマ・トンガの最中。デヴィットvs石森、田口vs飯伏の準決勝を観られなかったのは残念だが、決勝に間に合っただけでも儲けものだ。昨年の準決勝が今年の決勝に。ここにデヴィットと飯伏の確かな成長がある。

 試合は、ファイアーバード・スプラッシュを放った際に飯伏が左肩を脱臼するアクシデント発生。それでも試合を続行した飯伏だったが、肩を上げることすらできず、ブラディ・サンデーに沈み、デヴィットが優勝。唐突な決着になってしまったものの、ファンは大会を通しての2人の頑張り、そしてアクシデント発生までの見応えある攻防を観ているから、初優勝のデヴィットに大コール、そして負傷して敗れた飯伏にも大コールが起こった。

 飯伏は昼間のDDT興行で『ベスト・オブ・ザ・スーパーどインディー』で勝ち抜き戦を行い、夜は準決勝で田口、決勝でデヴィットと連戦。しかも振り幅も広かった。それだけに最後の最後に怪我をしたのは残念だし、7・25両国に影響が出なければいいが…。

 と、飯伏の状況を気にしつつ、またまたディファ有明に逆戻り。22時10分…1年前に三沢さんが亡くなった時刻に弔鐘が鳴らされるからだ。一周忌大会は19時過ぎには終了していたが、ノアは20時10分まで会場ロビーを観客に開放。21時半過ぎにディファに戻ると、ロビーには残った観客のためにイスが用意され、ビデオが流されていた。

 22時過ぎには新日本プロレスの菅林直樹社長も後楽園ホールから駆けつけた。それもノア・ファンの気持ちを考慮してか、目立たぬ場所にそっと立っていた。本当に律義な人である。

 22時10分、弔鐘の10ゴング。実は親族、ノア関係者だけによる一周忌の法要は前日午前に取り行われており、これはファンに向けてのもので正式なセレモニーではなかった。三沢光晴と共有した時間を忘れず、それと同時に力強く新しい一歩を踏み出しましょうというノア関係者からのファンへの気持ちと言ってもいい。

 この10ゴングで私の1日も終わった。これからも6月13日は三沢光晴という人間、レスラーを偲び、そして人生を歩み続ける意味を再確認させてくれる日になるだろう。

投稿者 maikai : 12:55 | コメント (5)

2010年06月10日

昭和&無骨という個性

 昨日は新宿FACEで天龍プロジェクトの旗揚げ第2戦。大会開始前に控室前の廊下で吉江豊と会ったら「いやあ、今は新日本に行ったら後輩の方が多くなっているんですけど、ここだとボクはまだまだヒヨッコですねぇ」と笑いながら太鼓腹をポン。吉江は12月でキャリア16年を迎えるが、この日の参戦メンバーの中で後輩はタイガー・シャーク、女子の植松寿絵の2人だけだ。

 ふと、ある控室の張り紙を見ると天龍源一郎、百田光雄、北原光騎、折原昌夫と書いてある。そこに天龍プロジェクト認定世界6人タッグ選手権タイトル管理委員長のザ・グレート・カブキが入って行く。この控室は天龍の全日本離脱以前の全日本…90年4月以前の馬場さんが元気だった頃の全日本プロレスである。

 さて、メインの6人タッグ王座決定戦に登場したのは天龍&百田&北原。対するは高山善廣&後藤達俊と一夜限りで金髪になった関本大介のザ・ゴールデンだ。ザ・ゴールデンは天龍に殺到。ファンの「バックドロップ!」という声に、何のためらいもなく天龍をバックドロップで叩きつける後藤。高山はキックをガンガン叩き込み、関本はチョップを連打、天龍のグーパンチには顔を突き出して踏ん張る。詳しい試合の流れはスポナビや新聞を見て頂きたい。

 天龍プロジェクトという空間は、ミックストマッチや西口プロレスなどのお楽しみをトッピングしつつ、ゴツゴツしたプロレス。昭和の匂いと武骨なプロレスは、今の洗練されたプロレスとは対極のもので、これはこれで強烈な個性になっていると思う。「自分が子供の頃のプロレスって、こういう雰囲気だったよなあ」と思わせてくれるものがある。そうした“かつてのプロレス”の香りを嗅ぎたい人は一度、会場に足を運んでみるといい。また、今のプロレスに夢中になっている人にも何か発見があるはずだ。

投稿者 maikai : 12:10 | コメント (1)

2010年06月07日

そこには技術を超えた戦いが

 昨年10月に右膝前十字靱帯を断裂して欠場を続けていたKENTAが昨日、7ヵ月ぶりにカムバックを果たした。それも、いきなり丸藤正道とのノア・ジュニア至高の対決とあって後楽園ホールは熱気ムンムン。入場前から大KENTAコールに包まれた。しかし興味深かったのは、試合開始のゴングが鳴るや、KENTAコールに負けない丸藤コールが起こったことだ。

「KENTAコール一色の中でやりたかったんだけど、そうならなかったのはKENTAがその位置にいるってことだなって」とは試合後の丸藤の言葉。恐らく観客はKENTAの復帰を祝福すると同時に、それだけで満足することなく、以前と変わらぬ激しい勝負を期待したということだろう。復帰戦であってもKENTAならそれが出来ると信じていたからこその「丸藤、手心を加えずにガンガン行ってくれ」という丸藤コールだったように思う。

 試合はやはり凄かった。いきなりハイスピードの攻防になったが、KENTAの試合勘は鈍っていなかったし、まるで丸藤に喧嘩を売るような顔面への蹴撃。対する丸藤はバリエーション豊富に非情な右膝攻撃。副社長という立場からすれば、ここでKENTAが壊れて再び欠場となれば、ノアという団体にとっては大打撃になるわけだが、丸藤はあくまでもGHCジュニア王座を狙う一レスラーに徹した。

 試合は実に26分51秒の熱闘。KENTAは初体験のタイガー・フロウジョンに沈んだ。だが、その顔には“やり切った感”があった。ファンにメッセージは発さなかったものの、胸を指差し、さらにリングを指差して「俺は、このリングの上にいる!」とアピールする姿は最高にカッコよかった。

「おい、クソ野郎! お帰り!」とマイクで声を掛け、拍手しながら花道を下がった丸藤。これに対してKENTAは「基本的には考え方は合わないですけど、そこはあの人なりのエールとしてありがたく受け止めて、次は倒したいと思います」とキッパリ。

 この2人の戦いは技術的に素晴らしい。だが単に技術だけでなく、考え方が違う“心の戦い”があるからファンの心を揺さぶるのだと思う。さあ、お楽しみはこれからだ!

投稿者 maikai : 11:12 | コメント (1)

2010年06月05日

エイエイオー!

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 昨日は天龍源一郎&折原昌夫と一緒にサムライTV『S-ARENA』に出演。昨日も書いた通り、6月4日は天龍と阿修羅・原が名古屋で握手した革命記念日。その時、私は東京にいて2人の握手を取材することはできなかった。同日の午前中、当時の東京スポーツの全日本担当記者だった柴田惣一氏から「今日の午後、天龍と阿修羅がシャンピアホテルで話し合うって言ってるよ。馬場さんの承諾も得ているようだし、2人でタッグを組むことになるんじゃないかな」と連絡をもらったことを覚えている。すでに時間的に名古屋に行くことは不可能だったのだ。

 そして2日後の6月6日、柴田氏から「さっき馬場さんから聞いたけど、今日、天龍と阿修羅を組ませるらしい」と再び電話。それまで天龍の去就を取材してきた私としては龍原砲結成となれば見逃すわけにはいかない。え当時の週刊ゴングの編集長だった舟木昭太郎氏に電話で事情を説明して飛行機で山口宇部まで飛び、そこから在来線を乗り継いで長門市トレーニングセンターに駆けつけた。午後6時前に会場に到着。すると廊下で天龍と出くわした。「おお、来たのか。でも今は何も話さないよ。沈黙は金なりって言うだろ」とニヤッ。そこから本当の意味での私の天龍番は始まった。

 あれから23年。天龍は全日本→SWS→WAR→フリー→全日本→フリー、そして60歳にして天龍プロジェクトを立ち上げた。私も週刊ゴングの全日本担当記者→編集長→フリーと状況が変わった。それでも、こうして一緒にテレビに出演出来たことは感慨深いものがあった。全日本時代の最後の付き人だった折原は、23年前はまだ入門していなかった。その折原が今は天龍をしっかりとサポートしている。これも感慨深いことだ。

 さて、掲載した写真は、天龍プロジェクトの試合後にやる「エイエイオー!」のポーズ。まず右手の拳を固めて、地面にしっかりと足を踏ん張って「エイ」、次に拳を左胸に当てて、熱き心の「エイ」、そして未来に向かって右手の人差し指を天に向かって突き立てて「オー!」だ。

 6・9新宿FACEでの天龍プロジェクト興行第2弾。みんなで「エイエイオー!」をやりましょう。

投稿者 maikai : 11:46 | コメント (5)

2010年06月04日

ジャンボ鶴田、そして革命記念日

 3月号の天龍特集に続き、現在発売中のコアマガジン『ブブカ』7月号でジャンボ鶴田の記事を書かせてもらった。きっかけは4月19日の新宿FACEにおける天龍プロジェクト旗揚げ戦。同大会で先の天龍特集の原稿を依頼してくれた森田秀一副編集長と再会したのだ。

 森田副編集長は大の天龍ファンであり、大のプロレスファン。「今日の旗揚げ戦は最後の鶴龍対決からちょうど20年ですね」「来月の14日には鶴田さんが亡くなって10年になるんですね」などという会話から「ジャンボ鶴田特集をやりましょう。ぜひ、原稿を書いてください」という話になった。

 ジャンボ鶴田は、私にとって全日本の中では一番最初に親しく喋れるようになったトップ選手。それはゴングが週刊化されて全日本プロレス担当記者になるより以前のことである。すでにジャイアント馬場に次ぐ存在だったが、偉ぶったところがなく、また人を寄せつけない空気を持っているわけでもなく、新米記者相手にも気さくに話をしてくれる人だった。ゴングが週刊になり、正式に担当記者になった後には保子夫人とのなれそめを巡業先のホテルの部屋で朝まで喋ってくれたこともあった。

 鶴龍抗争がスタートしてからは、私は天龍シンパ記者(実際にその通り)になったが、その一方では天龍さんとはまったく違う鶴田さんの人生観にも惹かれるものがあったし、何よりプロレスラーとしての底知れない強さを目の当たりにした。天龍源一郎とジャンボ鶴田の人生観を含めた“大勝負”を間近で取材できたことは幸せなことだし、私にとっては財産である。

 さて、今日6月4日は革命記念日。1987年6月4日、名古屋のシャンピアホテルで天龍源一郎と阿修羅・原が握手したことによって天龍革命…レボリューションがスタートした。

 そして23年後の今日、私は天龍さんと一緒にサムライTV『S-ARENA』に出演する。ぜひ、ご覧下さい。『ブブカ』7月号の方もよろしく!

投稿者 maikai : 12:08 | コメント (2)

2010年06月02日

佐久間編集長の辞任について

 週刊プロレスの佐久間一彦編集長が辞任した。

 私は33歳の時に週刊ゴングの編集長に就任して、周囲からは「若い編集長だね!」と言われたが、佐久間氏が週プロの編集長に就任したのは私より若い31歳の時。2007年4月の就任だから、ちょうど週刊ゴングが休刊してプロレス専門誌が1誌という大きなプレッシャーの中での編集長だった。

 編集長の仕事は記事を書いたり、編集作業をしていればいいというわけではない。部長という立場でもあるから社内の問題もあるし、編集部という組織をまとめなくてはいけない。売り上げをチェックし、編集制作費を考え、団体関係者&レスラーはもちろんのこと、本作りに関わる業者関係との細々としたことだってある。そこには毎週、良質の本を出し続けなければいけないプレッシャーだけでなく、様々な葛藤、心労…いろいろなことがあるわけだ。実際、私は4年5ヵ月で編集長を降りた。

 私が週刊ゴング編集長を降り、日本スポーツ出版社の編集企画室長になったのが99年1月。その年に佐久間氏は格闘技通信から週プロ編集部に異動になった。私は編集企画室長になってからも増刊号を作る関係、GAORAの全日本プロレス解説でちょこちょこと会場に顔を出していたから「週プロにまた新しい記者が入ったんだな」ぐらいの印象しかなく、本来なら私と佐久間氏に接点が生まれるはずがなかった。ところが04年9月に私は日本スポーツ出版社を退社、フリーとして週刊ゴングの仕事をするようになったことで接点が生まれた。当時の私にはノアの取材が回ってくることが多く、週プロのノア担当だった佐久間氏と毎週会場で顔を合わせるようになり、いろいろ話をするようになったのだ。

 私がベースボールマガジン社の仕事をするきっかけを作ってくれたのは佐久間氏だった。08年春に発売された『週プロ回顧録』という増刊号で“元・週刊ゴング編集長から見た週プロ”としてインタビューしてくれたのである。かつてはライバル誌の週刊ゴングの編集長で、95年のベースボールマガジン社主催の『夢の懸け橋』を激しく攻撃した私を起用することは、風当たりが強かったと思われるが「週プロの歴史を振り返る意味では、あの時の状況も避けては通れないことです。手前味噌な本は作りたくないので、ぜひ」と言ってくれた。気骨ある男だなと感じた。

 その後も『四天王プロレス』『三沢光晴追悼号』にも声をかけてもらい、昨年暮れには週プロの忘年会にも呼んでもらった。そして先日の週プロの天龍ミニ・アルバムのほとんどを任せてくれた。適材適所で力を発揮する場所を提供してくれたことには感謝以外の言葉はない。

 ひとまず、お疲れさまと書かせていただくが、これから先、いずれどこかで一緒に仕事ができることを願っている。佐久間氏の新たなステップに期待を込めて…。

投稿者 maikai : 11:13 | コメント (2)