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2010年02月15日

イタリア革命第2章に幸あれ!

 昨日の新日本・両国大会でミラノ・コレクションA.T.が引退した。昨年9月に両目下直筋下斜麻痺の手術を行ったが、受け身を取ったり衝撃を受けると元に戻ってしまうということで1月15日の契約更改の席上で菅林社長に引退の意思を告げて昨日の引退式に至っのだ。

 ミラノは私にとっては特別なレスラーだった。それまでも試合は観ていたが、個人的に喋るようになったのは03年の夏頃。たまたま共通の知人がいた関係で知り合ったのだ。当時の私は日本スポーツ出版社の編集企画室長という立場で、基本的にはプロレスの取材はしていなかった。週刊ゴングの主に全日本プロレス取材の助っ人をする程度で、あとは個人的に会場に顔を出して浦島太郎にならないように努めていた時期である。取材対象ではないから気軽に付き合えた。

 一方のミラノはイタリアン・キャラばりばりの頃で、キザで高飛車な空気を発散していたが、実際に会った素顔の照井青年は素朴な好青年。リングでは見せない笑顔が印象的だったし、「実は米のメシが一番好きなんですよ! チーズは苦手で…」と、キャラとは正反対に鮭のおにぎりをバクバク食べていた。

 私はそんなミラノに人間として好感を持ったし、もちろんレスラーとしての資質、姿勢も好きだった。あの長い手足はリング栄えするし、プロレス頭をフル回転させた技の数々も天性のものを感じさせた。

 もっとも感心したことは闘龍門からドラゴンゲートになり、05年4月にフリーとしてアメリカに旅立った時のこと。すでにミラノの名前でアメリカのマニアにも知られた存在だったが「アメリカン・プロレスを一から学びたいんですよ」と授業料を払ってテキサス州サンアントニオのテキサス・レスリング・アカデミーに入学したのである。

思えばアニマル浜口ジムから始まり、FMWの練習生となってハヤブサの付き人をやった。その後のサラリーマンになったが、その間にも髙田道場、和術慧舟會で総合格闘技をやって、アマチュア・シュートの大会に出られるぐらいの時にメキシコに渡って闘龍門に入った。そしてルチャの次はアメリカのオールド・スクール…と、向上心に溢れた男なのだ。06年夏から新日本プロレスに上がるようになったが、そのことについても「ストロング・スタイルって純プロレスのスタイルではなく、新日本のスタイルだと思うんですよ。だから僕は“ストロング・スタイルのミラノ”になりたいんじゃなくて、それを学ぶことによってルチャ、アメリカのオールド・スクール、新日本のストロング・スタイルを自分なりにミックスさせた独自のスタイルを確立したいんです」と言っていた。

 今回の引退に当たってもミラノは前向きに新たな道に踏み出した。本当は失意のどん底だったと思うが、引退を決意してから不動産関係の国家試験に合格し、また東洋医学も学んでいて、かつての師匠ハヤブサを車イス生活から解放してあげることを第2の人生のスタートにしようとしている。

 全試合終了後、ミラノは売店でサイン会をしていた。個人的に話す機会がなかった私は帰り際に売店に立ち寄って「ミラノ、お疲れ様。また会おうね」と声をかけた。返ってきた笑顔は03年夏に初めて会った時と同じだった。

 イタリア革命第2章に幸あれ!

投稿者 maikai : 13:16 | コメント (3)

2010年02月13日

健介オフィス3周年興行

  一昨日の健介オフィス旗揚げ3周年興行で改めて思ったことは、中嶋勝彦はやはり天才児だったということ。

 本人は天才と呼ばれることに抵抗があると思うが、昨年11月のROHカナダ遠征でのエル・ジェネリコ戦で右足首の靱帯を損傷して2ヵ月半、復帰3戦目で丸藤のプロレス頭をフル回転させた臨機応変な攻めと動きに対応して29分4秒もの熱戦を繰り広げたのだから、これは努力にプラスして天性のモノがあると言わざるを得ない。最後は丸藤がタイガー・フロウジョンで強引にケリをつけたという形だった。

 一方の丸藤も素晴らしかった。11歳年下の21歳の勝彦と同じ目線、同じ土俵で戦って試合を制したのだ。どこの団体に上がってもそこの空気を読んで戦い、確実に盛り上げる丸藤もまた、紛れもなく天才である。

 興行全体の雰囲気も良かった。健介オフィス興行の特徴は子供のお客さんが多いことだ。キッズ・スペースを作ったり、休憩時間に子供にリングを解放することによって家族連れでも足が運びやすくなっている。このあたりは健介&北斗の気配り。私の時代とは違って、今や子供がプロレスに触れる機会が少ないだけにこれは貴重なこと。“将来のプロレスファン”を開拓しようという姿勢は本当に嬉しい限り。

 石の上にも3年…健介オフィスは「努力すれば報われる」を示してくれる夢のある団体だと素直に思う。

 なお、私が一番ジーンときた村上和成ことビッグ村上のカムバックについては21日(日)更新の週プロモバイル『サンデー・小佐ポン』で書かせてもらったので、そちらもご覧下さい!

投稿者 maikai : 10:41 | コメント (3)

2010年02月12日

石川修司の進化

 昨日の建国記念日は後楽園ホールで昼=DDT、夜=健介オフィスのダブルヘッダー。今日はまずDDTについて書こう。

 例によって内容&ネタがテンコ盛りのDDTだったが、やはり注目はメインの石川修司に男色ディーノが挑戦したKO-D無差別級選手権。飯伏を倒して以来、木高イサミ、HARASHIMA、佐々木義人相手に防衛を重ねて絶対王者になりつつある石川は、ディーノをどう迎え撃つのか? ディーノはこの試合を「生き様のぶつけ合い」と表現、ディーノのスポークスマンのマサ高梨は石川修司の“破壊するプロレス”と男色ディーノの“心のプロレス”(客席から「えーっ!?」の声あり)と称して、この日は実戦的な勝負論に徹したディーノの男色コンバット殺法が飛び出すと予告した。

 石川の痛みが伝わる正攻法とディーノの男色ファイトがどう融合するかが興味のポイントだったが、ディーノは石川の、石川はディーノのフィールドに自ら入っていった。ディーノは大型の石川のパワーを封じるべくシリアスなグランド攻撃を仕掛け、勝負どころでは何とムーンサルトプレスの連発を披露、必殺のゲイ道クラッチも仕掛けていった。一方、ディーノに主導権を奪われた石川は終盤に入るといきなりタイツを脱ぎ捨て、下から出てきたのは男色タイツ! そしてお株を奪うリップロック(つまりはディープキス)、ニーによるジャイアント・ファイト一発、さらに男色ドライバーからサンダーファイヤー・パワーボムという硬軟織り交ぜた怒濤の攻めで一気にベルトを守った。

「生き様をぶつけ合う」としながら、お互いがお互いに相手のフィールドに入って行こうとしたのは、相手に合わせるという意味ではなく、相手の生き様をリスペクトしている証拠だったと私は解釈している。共に相手のプロレス観に直に触れてみたかったのではないか。

「僕は自分を向上させるためにバチバチやデスマッチなどいろいろなものに挑戦して糧にしてきました。今日のディーノさんの試合では石川修司を貫いてもいいと思ったんですけど、敢えてディーノさんの世界に入ってみようかなと。ディーノさんは凄いプロフェッショナルで、あの人がDDTに来た時にプロレスとは何かを考えさせられましたから。これからもいろいろなものに挑戦して石川修司、ユニオンを大きくしていきたいと思います。次は関本大介、その後に髙木三四郎に勝って、ユニオンの僕が7月25日の両国のメインを取ろうと思います。負けたら、またDVDを配りますよ」と石川。

 かつての石川は背は高いものの細くて、馬場さんのパロディのようなレスラーだった。それが体も心もグッと逞しくなり、自分のハードヒットなプロレスに確固たる自信を持ち、あのディーノの領域にも入っていって勝利した。すべては向上心の賜物である。石川は今、紛れもなくDDT全ブランドの頂点に立ち、さらに進化しようとしている。

投稿者 maikai : 14:45 | コメント (2)

2010年02月08日

ブードゥー・マーダーズの真価

 昨日の後楽園ホールにおける全日本プロレス開幕のメインはF4とブードゥー・マーダーズ(以下、VM)の解散をかけた4vs4キャプテンフォールマッチ。そして勝ったのはVM。しかも最後はセコンドの介入なしでTARUが小島を押さえるという文句のない勝利だった。

 試合後、発生したTARUコールに「やかましいわい!」とやり返したTARUだが、大勝負を制した感激が自然と伝わってきた。F4に対しては酷な書き方になってしまうが、TARUの「プロレスを考える」「ユニットとしての役割は何かを考える」という姿勢が上回っていた結果だと私は思っている。実際にこの5年間、TARUはプロレスそのものを考え、どうしたらお客さんが喜ぶかを考え、そしてどうやったら全日本マットで生き抜いて行けるかを危機感を持って考えてきた。だからこそ、メンバーが変わろうが埋没せずにここまでやってこられたのだと思う。

 以前、諏訪魔にインタビューした時にVM時代についてこう語っていた。

「VMに行ったことはよかったですよ。“伸び伸びできるんだな、プロレスって”と感じましたから。先輩後輩も関係ないし、“ああ、こうやってプロレスって考えるものなんだ”って教えていただきましたね。あの人たち、すっごい考えているよ。本隊の人たちより全然考えてたんじゃないかな。プロレスラーの視点から考えると、プロレス頭がある人の方が格上というかね。そういう意識がVMに入って芽生えた。『頭』がないと、この業界はキツイと思いましたよ。頭があれば、会場の空気を支配できる。あれは快感ですよ。試合も引っ張っていけるし。みんな考えるんだもん。TARUのオジキにしろ、近藤にしろ、ブラザー(YASSHI)にしろ…」

 純粋な技量としては決して一流とは言えないが、ヒールに徹してお客を沸かせ、そしてちょっと笑わせて盛り上げるTARUのプロレス頭は今の全日本マットの大切な財産である。

投稿者 maikai : 15:06 | コメント (4)

2010年02月07日

井上雅央の心意気に拍手!

昨日のディファ有明におけるノアはいろいろなことがあった。

 まずはGHCジュニア・ヘビー級タッグ王者決定トーナメント。優勝大本命の丸藤&青木が金丸&平柳に敗れるというハプニングが起こった。しかも勝利をゲットしたのは平柳。スタートからずっと丸藤&青木のシビアな潰しファイトに青息吐息だったが、最後は放送席の鼓太郎にメッセージを送るようにブルーディスティニーならぬ自称オリジナル技のブラックディスティニ―からの昇龍玄藩で青木をフォール。終わってみれば平柳が主役の試合だった。

「最後は無我夢中で憶えてません」とテレビカメラに殊勝なコメントをしている平柳と目が合ってしまい、失礼ながらプッと吹き出してしまったが、当の平柳も言葉とは裏腹にちらちらとこちらを見ながらニヤニヤ。やっぱり平柳は平柳である。

 メインはGHCタッグ前哨戦。力皇&ヨネのタッグ王者に杉浦が加わり、高山&佐野の挑戦者チームには秋山が加わっての6人タッグだったが、個人的な注目は若い世代の王者トリオvs秋山だ。いきなり杉浦vs秋山でスタートして、序盤は王者トリオvs秋山という展開で、若い世代が容赦なく秋山に襲い掛かり、それを秋山が耐えしのぐ流れに。秋山にとってはハードな戦いが続くが、今こそノア黎明期を支えてきた男の意地と底力の見せどころ。それを若い世代に叩き込むのが役目である。2・28日本武道館では秋山&健介vs丸藤&谷口が実現する。これまた注目だ。

 さて、昨日の一番の注目ポイントは井上雅央の復帰。雅央は昨年7・20秋田における小橋との白GHC戦で左股関節後方脱臼という大怪我を負って半年以上欠場していた。欠場中も明るく振る舞っていたから、そんなに大きな怪我ではないと思っていたが、外れた骨が血管を引きちぎって壊死する可能性もあったという。この怪我からスポーツ選手が復帰した例は過去になく、雅央にしても今後1~2年の経過観察が必要だという。

 それでもリングに上がった雅央は、いつもの雅央だった。田上、小川の手荒い祝福を受けてのたうちまわり、お返しに細かい反則を繰り出して観客を大いに楽しませてくれた。とても半年以上の空白を感じさせない雅央ワールドを作り上げたということは、実際には凄いことだと思う。

 試合後に改めて雅央のプロレスラーとしての心意気を感じた。カムバックした心境を聞かれると、しばしの沈黙の後に「受け身を取ってレスラーなんだなって実感しました。キツイですね。でも、これでやっとレスラーに戻れた気がする痛みです」と言ったのだ。雅央は職人肌の受けのレスラー。その誇りが滲み出たコメントだった。

「自分では大丈夫だと思っているけど、怖いですね。股関節がはずれた時の感覚が頭に焼きついているから。その瞬間はグニャーみたいな何ともいえない感覚でしたね。自分ではずれたのがわかったからレフェリーに“脱臼しているからストップして”って言ったんですけど、骨折もしていて。リハビリは先生と浅子さんにメニューを作ってもらって。退院は1ヵ月ぐらいでできたんですけど、松葉杖ついている時間が長かったから。復帰のメドがついたのはここ最近ですよ。やっと走れるようになってからですね。あとは受け身取って、衝撃を受けた時にどうかなあ」と雅央。飄々としていながら、プロ根性の塊だけに、これからも雅央ワールドで観客を楽しませてくれるはず。雅央、復帰おめでとう!

投稿者 maikai : 14:15 | コメント (2)

2010年02月02日

南部の麒麟児死去

 2月1日(現地時間)早朝、元NWA世界ヘビー級チャンピオンのジャック・ブリスコが亡くなったと聞いた。数週間前に心臓のバイパス手術を行ったが、その後に合併症を引き起こしたという。まだ68歳の若さだった。

“南部の麒麟児”と呼ばれたジャック・ブリスコは私ぐらいの年代(40代中~50代)にとってはドリー・ファンク・ジュニアと並んで古き良き時代のNWAの象徴というイメージが強いはず。そんなブリスコが1979年の『第2回MSGシリーズ』に特別参加した時は、当時、新日本プロレスのファンクラブを主宰していた私としては小躍りするほど嬉しかった。

 新日本は75年にNWAに加盟したものの、反主流派に属していたから猪木のNWA世界挑戦は現実的にはあり得ないものだった。それだけに猪木と元NWA世界王者ブリスコの一騎打ちが実現というだけで新日本ファン、猪木ファンにとっては夢のカードだった。71年8月5日に愛知県体育館における猪木とブリスコのUNヘビー級選手権をテレビで観たのは小学校4年生の時。それから8年…高校3年生になった私は、79年5月19日に福岡スポーツセンターにおける猪木vsブリスコのNWFヘビー級戦を観に行った。

 思えば、飛行機に乗ったのはこの時が初めて。高校生で小遣いも大してない頃だったから、ファンクラブ仲間の小林和朋クン(のちに週刊ゴング新日本担当→副編集長→バーニングスタッフ代表)と、空席があれば運賃が半額になるスカイメイトを利用し、朝一番の飛行機に乗って初めて九州に上陸した次第だ。

 現地ではデイリースポーツの大加戸康一記者(新日本担当記者で藤波と親しかった)や新間寿さんに「ここまで来たのか!?」と驚かれ、試合後にはゴング編集長だった竹内宏介さんに夕飯を御馳走になり、ウォーリー山口さんと小林君の3人でホテルに泊まった。部屋でプロレスごっこをやっていたらフロントから電話がかかってきて怒られてしまったのも、今となってはいい思い出。

 肝心の猪木vsブリスコは、猪木が首固めで丸め込んで勝つという、当時の私としたらちょっと物足りないものだったが「東京以外の大会場で試合を観た!」という興奮が大きかったように思う。

 本題からズレてしまったが、ブリスコの悲報に接して、何だかファンクラブ時代のことをいろいろ思い出した。こうしてちょっと振り返っただけでも、プロレスを観ることに付随していろいろ面白い経験をしてきたんだなあと改めて思う。その意味ではプロレスに感謝だし、福岡まで足を運ばせてくれたブリスコにも感謝である。

 故人の冥福をお祈りいたします。

投稿者 maikai : 13:07 | コメント (4)

2010年02月01日

祥月命日

 昨日は午後3時過ぎにジャイアント馬場さんのお宅へ。そう、1月31日は馬場さんの祥月命日なのだ。馬場さんが亡くなったのは1999年1月31日午後4時4分。来年は13回忌になる。

 私の感覚としてはアッという間の11年だが、その間に馬場さんと同じ天国に旅立った人たちのことを考えると、やはり長い月日だ。プロレス・マスコミ関係者にしても、今や馬場さんに接したことがない人の方が多いのが現実。

 そうした時の流れを実感しつつも、未だに馬場さんに、元子さんにご挨拶できる自分でいられるのは嬉しいこと。06年の祥月命日から私の妻がフラワー・レイを作り、それを毎年、お供えしていて、今年は馬場さんの身長に合わせた長さ209センチのものなど、4本のレイをお供えさせてもらった。

 馬場さんという大きな存在のもとに集まる人たちは当然ながら高齢になっていく。アラフィフ(こんな言葉ある?)の私でさえ若い部類に入ってしまう。古希を迎えられた元子さんを中心に、これからも毎年ずっと皆さんと元気にお会いできることが私の願いだ。もちろん、私自身も心身健康に、仕事も充実させて、1月31日にはあらゆる意味で元気にみなさんとお会いしたいと思う。

投稿者 maikai : 12:34 | コメント (0)