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2005年07月31日

ノア5周年パーティー

 昨日午後6時から台場のホテル・グランパシフィック・メリディアンでプロレスリング・ノアの5周年記念パーティーが催された。いつも仲田龍ちゃんから「敵ながらアッパレ!」と呼ばれている私も呼ばれたのだ。

「本来ですと、この5年間を振り返るところですが…面倒臭いからやめます!」という三沢社長のオヤジ・ギャグ的挨拶からして、実にノアらしいパーティーだった。ぶっちゃけた話、こうしたパーティーはご祝儀集めと相場が決まっているが、2時間にも及ぶ宴にもかかわらず、最後まで料理が切れない豪華版。銀座の『おざわ鮨』は大将以下、職人さん全員が揃って招待客に振舞っていた。

 余興は一切なく、料理でもてなすというスタイル。マスコミ的には絵にならないが、お世話になった人たちに感謝の気持ちを伝えるという意味では正統派である。これぞ、ノア・スタイル。

 それにしても千人にも及ぶ招待客…三沢社長以下の人脈を改めて目の当たりにした思いだ。みっちゃん、アンタは凄いよ。5周年、おめでとう!

投稿者 maikai : 18:46 | コメント (0)

2005年07月29日

我々は何をすべきか

 週刊ゴング1083号からスタートした橋本真也のプロレス人生を検証する企画ページは来週発売号(7月27日)のPART3で最終回。やっとその仕事が終わった。

 それほど橋本と接していない私にとっては、改めて橋本真也というレスラーの足跡を知るという意味では勉強になったが、正直な話、辛い仕事でもあった。それは昔の写真を探し出すこと。去年の9月までは昔の写真や資料は竹内さんと私が管理していたから、企画物の記事を作るのは難しいことではなかったが、資料が増えすぎてしまったということで、私の退社後に新しい倉庫にすべてが移されてしまったから、まるで勝手が分からない。これはかなりのストレス。どうしても見つけられない写真もあったし、その反面では目的の1枚がやっと見つかった時の喜びは大きかった。

 ハッキリ言って地味な仕事だったが、こうした仕事こそがプロレス専門誌の使命ではないかと思う。橋本が亡くなって嘆き悲しむのは当然だが、我々の場合は橋本の何を世間に届かせるかを考えなければいけない。きっちりと彼の足跡を誌面で伝えることは、プロレス専門誌にしかできないことなのだ。

 この3週にわたる企画物で橋本のレスラー人生21年のすべてを伝えることは到底不可能だったが、それでも少しは供養になったのではないかと確信している。

投稿者 maikai : 21:58 | コメント (1)

2005年07月28日

健康診断はツライよ

 今日は1年に1回の健康診断。とは言っても、もう会社員ではないから個人で受けなければならないのだ。昨夜の夜8時以降は食事もお酒もタバコもNG。それでもって朝8時30分~9時30分の間に来いというのだから、完全に夜型になっている身には辛い。かえって健康に悪そう…。

 しかし、それこそ不健康な生活を25年以上も送っているだけに、体のチェックはちゃんとしておかねばと朝7時に起きて行ってきました。大体、医者関係は苦手。バリウムを飲むのもイヤだし、血を採られるのもイヤ。注射針が苦手なんだよね!血を抜かれている最中の腕を見ることなんか無理だって!

 その後に取材1本、会議、徹夜の追い込み(現在、進行中)…この稼業をやっている以上、仕方がないか。と、たまにはボヤキのダイアリーでした。チャンチャン!

投稿者 maikai : 23:31 | コメント (0)

2005年07月27日

YASSHIは最高!

 昨日の全日本の代々木大会は台風7号をものともせずに盛り上がった。大会全体の総括については今日の深夜に更新するプロレスコラムを読んでいただくとして、ここでは近藤&YASSHI対健介&中嶋のアジア・タッグ選手権について書いてみたい。

 なぜ、この試合かって? それは異常に盛り上がったから。近藤&YASSHIの憎まれっぷりと健介ファミリーへの絶大な声援のコントラストは見ていて(聞いていて)気持ちがいいほどだった。ハッキリ言ったら、純粋にカードだけを考えると、取り立てて興味を駆り立てるものではないと思う。ところが、ここに至るまでに近藤&YASSHIが属するVMと健介ファミリーの間には、中嶋の初流血→近藤&YASSHIが本間&中嶋を破ってアジア・タッグ獲得→VMが健介の目の前で北斗を失神KOという因縁があるのだ。

 この下地に加えてYASHHIの嫌われ方は特筆もの。闘龍門、ドラゲー時代からそうだが、ヒールというよりも「こいつ、キライ!」と生理的に嫌われる、本当の嫌われ者。これは全日本に来ても健在だった!

 健介ファミリーへの絶大な声援は、裏を返せばYASSHIのおかげ。日本人レスラーでありながら、ここまでお客さんから嫌われるYASSHIは、銭の取れるレスラーと言っていい。最高だぜ!

投稿者 maikai : 21:35 | コメント (0)

2005年07月25日

久々のビール!

 このところ休みがなかったが、昨日は久々の休養日。婚約も相整い、あとは10月のハワイ挙式を待つばかりのタカシ君&ワカナちゃんカップル、トミヅカ君、ウチら夫婦で恵比寿ガーデンプレイスのビヤ・ステーションに繰り出した。思えば恵比寿ガーデンプレイスに来るのは久しぶり。ウェスティンホテル東京での冬木軍の記者会見、ディレクTVの本社があった時代にしか来たことがないような気がする。

 エビスのハーフ&ハーフ、季節限定の生、ついでにしそ焼酎の鍛高タンをボトルで戴き、アイスバインやジャーマン・ポテト、ザワークラフト、ピザ、ラム肉でグイッ!たまには、こういう日もなくっちゃね!

 でも問題は私自身のスタミナ。2時間もしたら体が重くなり、ついでに睡魔も…。帰る時には動く歩道の手すりにつかまって寝ている始末。昔のように朝までドンチャンやるのは無理のようだ。天龍同盟で連日のように宴会をやっていたのも今は昔…。いやいや、夏はこれからが本番。元気にビールを飲まなくては! 

投稿者 maikai : 17:39 | コメント (0)

2005年07月23日

橋本真也の私生活報道について

 昨日、橋本のマネジャーが緊急入院した冬木薫さんの代理として、橋本と薫さんが6月に婚約、復帰後に結婚する予定だったと記者会見で発表した。 これまでも夕刊紙、写真週刊誌、女性誌で橋本と薫さんの関係は記事として出回っていたが、当事者の代理人が発表したことにより、公然のこととなったわけだ。

 なぜ、発表する必要があったのかはわからない。だが、これがスキャンダラスに取り上げられて、プロレスラー橋本真也の評価が変わってしまうことになったらいけないと思う。ほとんどのプロレス・マスコミは今回の事実を知っていたと思うが、それを敢えて表に出さなかったのは、そうした懸念があったからにほかならない。

 では、私はどう思っているかって? 初めて噂を聞いたのがいつだったかは憶えていないが、相当、前だったのは確か。それは初めて知った時にはショックだったし、複雑な心境だった。私は冬木さんが好きだったし、ガンの末期の頃の薫さんの献身的な看病も見ている。もう意識が混濁する間際の、喋れるギリギリの段階で冬木さんに会わせてくれたのも薫さんだった。そして私は残された薫さんと子供たちのために冬木さんの追悼号を作ったのだ。だから、今回の事実を知った時の、最初の気持ちは「なぜ?」。

 ただ所詮、すべては周りの人の勝手な感情であり、大人の男女のことは当事者しかわからない。もちろん不倫はよくないが、橋本が離婚してしまえば、そこには過去のいろいろな経緯があるにせよ、恋人同士ということになる。

 私が今、望んでいることは、和美さんと薫さんが泥仕合のようにならないこと。一番、気にかかるのは両家の子供たちだ。子供は親の都合によって、自分ではどうにもならない力による運命を受け入れざるを得なくなる。親には親の、子供には子供の人生があるとはいっても、子供を守ることが親の最低限の義務だと、私は思う。

 これ以上の言葉は、両家の関係者でも友達でもないので差し控えたいと思う。ただ、プロレス・メディアでは、この件について私が記事を書くことはないだろうから、今日はあえて書かせてもらった。

投稿者 maikai : 23:38 | コメント (0)

2005年07月21日

カズシ凱旋

 先週からいろいろなことがありすぎて、なかなか書けなかったが、全日本プロレスに宮本和志が凱旋した。宮本は2000年6月の分裂騒動があったあとに全日本でデビューした第1号選手。当時の所属選手は川田と渕だけだったから、黙々と雑用をこなす宮本とは年が離れていても自然と話すようになった。昨年7月に渡米後も「○日○日に××でベルトに挑戦します」「サンアントニオに引っ越しました」「チャンピオンになりました」と簡単ながらもメールをくれて、ちょっとしたメル友だった。

 この仕事をしていて楽しいのは、新弟子がデビューして、海外修行に行き、そして帰ってきてメインエベンターの道を上がって行く過程を見られること。海外に行く時の希望に燃えた顔、帰国した時の自信に満ちた顔を見るのは何とも言えない。そして、新弟子時代は呼び捨てで呼んでいた若者を、少なくとも公の場では“さん付け”で呼ぶようになり、敬語で接するようになるのだ。それは嬉しいような寂しいような気分でもある。

 さて宮本だ。7月15日の後楽園ホールの控室で久々に会った宮本はアメリカ帰りらしく垢抜けて見えた。「お久しぶりです!」と握手の手を差し出してくる仕草にもレスラーとしての自信が感じられた。この日、私はGAORAの解説だったが、入場してきた宮本は最高にかっこよく見えた。残念ながら、この日の雷陣戦しか見ていないが、海外修行の一番の意味は、英語を覚え、プロレスラーとして食うということを実感し、ファンとの呼吸を覚え、そして自信をつけることだと思う。

 恐らく7・26代々木の川田戦では鼻っ柱を折られる結果になるだろうが、その上での改めてのアメリカ生活は宮本を大きくさせると信じている。頑張れ、カズシ!

投稿者 maikai : 21:02 | コメント (0)

2005年07月20日

昨日のロンブー

 昨日の夜9時からテレビ朝日で放映された『ロンドンブーツ』に橋本真也が出演していた。先月22日に収録したもので、西口プロレスでの長州小力との絡み。最後のケサ斬りチョップは小力に決めたものだったのか…。こんな見方はしたくはないが、試合ができない状況で、こうしたテレビの仕事などで収入を得ていたのだと思うと胸が痛くなった。救いだったのは、橋本が本当に楽しそうに番組に参加していたこと。そうでなければ救われない。

 番組の最後には橋本を偲んで過去の小川戦や髙田戦のダイジェストがチラッと流れたが、高田に決めた水面蹴りの速いこと! 改めて凄いレスラーだと認識させられた。

 今、私は週刊ゴングで橋本の追悼企画グラビアを連載で担当している。生前、それほど接点があったわけではないが、改めて検証し、写真を探していると、いろいろな発見がある。人懐こそうな笑顔、輝かしい戦歴…いろいろな発見があるのだ。こうした作業で改めて21年間の功績を読者に伝えることが、供養になると信じたい。

投稿者 maikai : 17:45 | コメント (0)

2005年07月19日

天龍と小川

 今、ようやく週刊ゴングのノア速報増刊号の入稿が終わった。今回の増刊号の記事はすべて署名入り。私は力皇VS棚橋のGHCヘビー級戦と天龍VS小川を担当したので、ぜひ読んで下さい。金曜日発売です。

 ということで、宣伝はこれくらいにして…今日(正確には昨日)のノア東京ドームである。実は週刊ゴングの速報ページも担当したために三沢VS川田、小橋VS健介は観ることができなかった。現場に行っていてこれだから、仕事とは辛いものだ。周りの評価を聞くと、小橋VS健介の評判が凄くいい。改めてテレビで確認するしかない…。

 観ていないものは書けないので、ここでは天龍と小川について増刊号と重複しないことを書かせていただく。正直言って、この2人の対決への私の思い入れはかなり強い。それはそうだろう、21年前の2人の出会いから知っているのだ。その間、天龍さんとは天龍番記者としてずっと接してきたし、取材できない期間はあったものの、小川も変わらず私と付き合ってくれていた。2度とリングで交わらないだろうと思っていた、そんな2人の初のシングルだから力が入っても当然だろう。

 ただし、6月7日の仙台におけるタッグ前哨戦からドームの日まで、私は2人と一切連絡を取らなかった。話を聞かずに敢えて真っ白な気持ちで試合を観、記事を書きたかったからだ。

 だが、いざ観てしまうと…試合内容はハッキリ言ってどうでもよかった。入場前の両者の何とも言えない顔、対決前までは2人とも盛んに相手を挑発していたが、実際にリングで対峙した時の嬉しさが隠せない表情を見ただけで十分だった。それは6万2千人の中での2人だけの試合という天龍と小川にとって贅沢な時間だったと思う。

 試合後、自然な形で小川を抱き寄せた天龍と、これまた自然に受け入れた天龍。すね者2人がそれぞれに素直な感情を表した。リング上では、お互いがお互いをリスペクトして同じ目線で戦っても、リングを降りれば、師弟は師弟。こうしたドラマを間近で見ることができたのだから、21年間、2人と付き合いができてよかったと思う。プロレスは単なる勝敗を競う格闘技にあらず。プロレスは人生ドラマだ。

投稿者 maikai : 04:54 | コメント (0)

2005年07月15日

粋な計らい

 今日15日は全日本の7月シリーズの開幕戦。ということは、全日本のレスラーは橋本さんのお通夜に出席できないということになる。つくづく辛い仕事だ。

 そんな状況で武藤が粋な計らいをしてくれた。全試合終了後に追悼の10ゴングを鳴らすことは決定済みだったが、メイン終了後、武藤が小島、健介、嵐を指名して急遽、武藤&嵐組と小島&健介組の追悼試合10分1本勝負が行なわれたのだ。レスラーはレスラーらしく、リング上のファイトで故人への哀悼を表そうという武藤の意思である。小島、健介はもちろん、嵐だって橋本さんの三冠王座に挑戦した男。武藤は、ちゃんと縁のある人間をピックアップしたわけだ。小島は試合のスタートから泣いていた。

 橋本さんを偲ぶようにケサ斬りチョップを連発する選手たち。嵐の橋本さんを彷彿とさせるニールキックに会場がどよめいた。武藤は、橋本さんが小川との一騎打ち第2R用に開発した燕返し、さらには三角絞めを繰り出した。館内はいつしか橋本コールに包まれ、試合後の10ゴングの時には客席のあちこちから、すすり泣きの声が…。フィナーレはもちろん橋本さんのテーマ曲『爆勝宣言』。

 どういう形でもいいから橋本真也というレスラーをファンの胸に焼き付けたいという武藤の気持ちが痛いほど伝わってきた後楽園。今日はGORA中継の解説にためにお通夜に行けず、明日も追悼増刊号に続く週刊ゴング用の橋本さんの企画ページの締め切りの都合上、葬儀に出席できない私にとっても、この粋な計らいは嬉しかった。ありがとう、武藤敬司。
 

投稿者 maikai : 22:39 | コメント (0)

2005年07月14日

川田は…デンジャラスK!

今週の週刊ゴングをご覧になった方も多いだろうが、巻頭カラー特集は三沢と川田の26年の運命。となると、私の出番である。こうした時にキャリアは大事な引き出し…ひとつの財産になる。などと偉そうなことを書いても、たまたま2人と長い付き合いがあったってことだけなんだが。

 川田の取材で箱根に行き、取材が終わったらもちろん宴会だ。川田は「三沢さんは酒が飲めなかった」と言っていたが、当の川田はいつから飲めるようになったのだろう? 少なくとも天龍同盟時代は飲めないクチだった。いつも宴会の隅で存在感を消していたし、神経質で移動バスの中では眠れない川田は、連日の宴会漬けに「寝不足だあー!」といつも嘆いていたものだ。気分が悪くなって、自分で救急車を呼んだという伝説もあるしね。もっとも本人は「北尾は救急車で運ばれたんでしょ? 俺は自分で呼んで、人に迷惑かけなかったんだから」と今もヘンな自慢をしている。

 SWS騒動から全日本の会場に顔を出さなくなってしばらくしてから東京・御徒町の超世代軍の溜り場(というよりは三沢と川田の溜り場)になっているスナックに顔を出すと、すっかり“天龍になっている”三沢と川田がいて笑えた。三沢は人に無理強いしなかったが、川田は若手だった浅子や雅央に「ナニ? 飲めない? バカヤロウ! 俺なんか若い頃はなあ(この時も若かったが…)、天龍さんに飲まされて救急車で病院に運ばれたんだぞ!」とイッキを強要していたものだ。

 思えば、川田と飲むのは超世代軍時代以来か!? 聖鬼軍になってからはパッタリと例のスナックには顔を出さなくなってしまっていたのだ。実に12~13年ぶりに飲んだ川田は超世代軍時代と何も変わっていなかった。何が変わっていなかったって…飲むスタミナ。結局、お開きになったのは午前4時半過ぎ。これって40代になった人間の飲み方じゃないよ。それでも4時間後にはスッキリした顔で「オハヨー!」。キミはやっぱりデンジャラスKだ!

投稿者 maikai : 18:22 | コメント (0)

2005年07月13日

橋本真也追悼号

 週刊ゴングでは来週の火曜日の19日に橋本真也追悼号を緊急発売することを決定した。私も昨日の昼に協力を要請された。18日が休日になるので、作業の締め切りは明日の朝まで。事実上、1日で本を作るのだから、これはハードだ。

 商業誌である以上、これは商売になってしまう。だが、偉大な功績を残したレスラーを後世に伝えるのは我々の義務。その心意気がなければできない因果な仕事である。

 思えば99年1月に週刊ゴング編集長から編集企画室長になった時の最初の仕事がジャイアント馬場さんの追悼号だった。その1年後にはジャンボ鶴田さんの追悼号を作った。そして2003年3月には冬木さんの追悼号を作っている。冬木さんの追悼号の場合には、亡くなる数日前に「意識があるのは今日までだろうから…」と連絡を受けて病院に駆けつけ、その帰りに“何としても冬木さんのメモリアルを残さなければならない。これは俺にしかできない役目だ”と思って制作を決意し、すぐに根回したもの。最後の入稿が葬儀という形で緊急発売した。悲しい役目だったが、この本を出せたのは私の誇りでもある。

 橋本さんの追悼号も精一杯作らせてもらう。これは使命なのだから。

投稿者 maikai : 22:23 | コメント (0)

2005年07月12日

ようやく実感が…

 昨日の午後、橋本選手の突然の訃報。夜9時からの『NES侍』は追悼番組的な内容になり、GKこと週刊ゴングの金沢プロデューサーと出演した。橋本選手と21年来の付き合いがあるGKは「ふざけているか、喧嘩しているかどっちかだった…」と言っていたが、番組の最後には我慢できずに涙をこぼしていた…。

 番組終了後、GKと共に週刊ゴング編集部へ。吉川編集長を交えて情報収集と今後への対応、次号の構成をどうするか、さらには追悼増刊号をどう進行させるかを話し合った。一時代を築いた橋本真也というレスラーをどう後世に伝えるか…これは我々の義務である。

 今朝、各局のワイドショーで橋本選手の死が大々的に取り上げられていた。橋本真也、急逝…これは現実なのだ。

投稿者 maikai : 13:56 | コメント (1)

2005年07月11日

橋本真也、急逝

 午後2時過ぎ、英会話スクールを終えて携帯電話をチェックすると、数多くの着信が。そして次々にかかってくる電話…。すべて橋本真也の急逝に関するものだった。

 えっ? 橋本が!? こうしてダイアリーを打ち込んでいる今も、何か信じられないし、情報が交錯して現時点では詳しいことはわかっていない。こういう状況になると媒体を持たない私は何もできない。ただ人からの情報を待つ受け身の状態。何か…頭が真っ白で整理がつかないというのが正直なところだ。

 私は橋本選手とはほとんど接点がなかった。彼がデビューした昭和59年当時、私はバリバリの全日本担当。しかも長州らジャパン・プロレス勢が全日本マットに上がるという状況だったから、そちらの取材に精一杯で、新日本マットに目を向ける余裕がなかった。だからヤングライオン時代の橋本選手の記憶はまったくないのである。

 彼が私の取材対象になったのは平成5年に天龍さんを狙ってWARのリングに上がるようになってから。その印象は一途で純真…別の表現をすると、、こうだと思うと周りが見えなくなって一直線な人というものだった。

 もうハッキリとは憶えていないが、ゼロワンを立ちあげたばかりの2000年春、天龍さんと橋本選手の対決の気運が盛り上がり、天龍さんの依頼を受けて、橋本選手に真意を聞きに行ったことがある。確か場所はZEEP TOKYOで、マスコミをシャットアウトしていたが「取材じゃないから」と面会を申し出ると、快く控室に迎え入れてくれて「お久しぶりですね…」と笑顔で迎えてくれた。当時の橋本選手はノアとの戦いに目が向いていて天龍戦はお流れになってしまったが、じっくり話ができたのはその時が最後だったと思う。

 あの伝説の99年1・4東京ドームにおける小川戦(事実上の失神KO負け)から半年後の6・8日本武道館。天龍戦でカムバックした橋本の、
「俺も将来、あんなオッサンになってやろうと思います!」
 という言葉が忘れられない。だが、オッサンになる前に旅立ってしまった。40歳とはあまりにも若すぎる。今はただ、安らかにとしか言葉が出ない。合掌。

 

投稿者 maikai : 16:07 | コメント (0)

2005年07月10日

ケンゾー、WWE解雇

 日本ツアーが終わったと同時にWWEはリストラの嵐。日本ツアーに参加してマット・モーガンなどは、帰国してすぐに電話で解雇を言い渡されたというから、本当にシビアだ。

 そして日本人選手でもリストラ組が出てしまった。今年の2月末に内臓疾患のために長期療養し、ようやくカムバックが決まっていたケンゾーである。ケンゾーはスマックダウンからRAWへの移籍が決まっていたが、RAW移籍の通達の2日後に今度はリストラ通告だったというからたまらない。WWEのギャラは高いが、いつリストラされるかわからない。契約内容にもよるが、リストラ通告と同時に働くリングがなくなってしまうというのが現実なのだ。

 私がケンゾーと喋るようになったのはWJ時代に一緒にサムライTVに出演してから。私が週刊ゴングの編集長を降りた99年の4月に新日本に入団し、00年1月4日のデビューだったから、それまで個人的な接点は生まれなかった。で、いざ喋ってみるとケンゾーはユニークな感性の持ち主だった。すでにWJの経営悪化がマスコミの間では囁かれていた時期だったが、
「だいたいウチはインディーなんだから。それをメジャーと勘違いしてるから駄目なんですよ」
 と平気で言っていた。また、
「俺、大仁田さんとデスマッチやってもいいなと思ってたんですけど、この間、冬木選手の追悼試合の橋本さんと金村さんの電流爆破マッチをビデオで観て、これには勝てないなと思いましたよ。だって俺、感動して涙が出ましたから」
 などとも言っていた。その感覚が、新日本のエリート出身とは思えず、興味をそそられた。

 今年1月にゴングでアメリカン・レスリング・ゴングという増刊号を作る際、ケンゾーにWWEイラク遠征の日記と写真をお願いしたが、日記はほとんどリライトせずに使える、味のある文章だったし、写真のセンスもバッチリ。「さすが東海テレビ出身!」と思ったものだ。

 何か人にはないセンスと才能が感じられるケンゾーだけに、ここで日本に帰ってきたらもったいないと思う。米インディーでは生活も辛いだろうが、TNAという選択肢もあるだろうし、違う味があって、なおかつスケールの大きな国際派のレスラーになってくれることを願うばかりだ。

投稿者 maikai : 19:32 | コメント (0)

2005年07月07日

坂口親子のアメリカ旅を観て…

 6月25日深夜に放映されたテレビ朝日『僕の中のリング 坂口征二・坂口憲二 アメリカ・プロレスの旅』を、ようやくビデオで観た。ハーリー・レイス、スティーブ・カーン、カール・ゴッチ、ドリー・ファンク・ジュニア…懐かしかったなあ。宮本和志の暮らしが見られたのもよかった。

「プロレスはタフでいて安全でなければならない」(ハーリー・レイス)「倒れても立ち上がるタフなハートが必要だ」(レイスの門下生)「声を出せ」(カーン)のどの言葉もプロレスの本質に触れるものだったと思うし、未だフロリダのインディーでファイトしているドリーの「好きだからプロレスをやっている」という言葉も心に響くものだった。あくまでもストイックなゴッチさんは81歳になってもゴッチさん。その元気な姿を見ることができただけでも、この番組を観た甲斐があった。

 この番組を観て思い出したのは1981年のアメリカ旅。本場のアメリカ・マットを知りたくて、ゴングのバイトで貯めた総額80万円でアメリカを3週間旅した時のことだ。グレイハンウンド・バスの1ヵ月パスとデルタ・エアラインのラウンズ・チケットを購入して、あとはすべてキャッシュ。当時19歳だった私はクレジット・カードを持っていなかったのである。
 
 ルイジアナ州バートンルージ→フロリダ州マイアミ→フロリダ州ウェストパームビーチ→ミズーリ州セントルイス(キール・オーデトリアム&スタジオのTVマッチ)→ジョージア州アトランタ→フロリダ州タンパ→テキサス州サンアントニオ→テキサス州ヒューストン→テキサス州ダラス→テネシー州ナッシュビル→ケンタッキー州ルイビル→ノースカロライナ州スパルタンバーグ→バージニア州リッチモンド→最後はニューヨークMSGと、15試合もよく回れたものだと思う。

 当時はテリトリーが確立されていて、それぞれに特色があった。ルイジアナのMSWAはレスリング主体で、ボブ・ループがトップを取っていた。フロリダ、ミズーリ、ジョージア、カロライナは当時のNWA黄金テリトリーでトップ選手が集結。テキサスのサンアントニオ&ヒューストンのSWCはNWAとAWAの両方の選手がファイトするオイシイ場所でニックボックウインクルvsミル・マスカラスのAWA世界戦を観られたのはラッキーだった。ダラスはエリック王国、テネシーはパンチ&キックの喧嘩ファイトが出来る選手がトップを取るテリトリー。MSGではカネックのアメリカ・デビュー戦、キラー・カーンvsアンドレ・ザ・ジャイアントの遺恨マッチを観ることができた。

 フロリダではヒールのテリーがサンアントニオではベビー、ジョージアではヒールのブロディがダラスではベビーという地区によっての選手のキャラ分けも新鮮だったことを記憶している。

 このアメリカ旅で私は「プロレスはいろいろあるんだなあ」と改めて実感した。そして、今回の坂口親子の旅でも、登場する人たちがそれぞれ違うプロレス哲学を喋りながらも、それぞれにプロレスに情熱を持っていることがうまく伝わっていたと思う。

 改めて馬場さんの言葉を思い出す。

「そういうものをすべて含んだものがプロレスなんだ」。

投稿者 maikai : 15:24 | コメント (0)

2005年07月05日

リッキーに感激!

 ちょっと話題は古くなってしまうが、先日のWWEスーパーショーで個人的に嬉しかったのは、エージェントとして来日したリッキー・スティムボートの勇姿を見られたこと。そう、あの“南海の黒豹”だ。

 初日はエディ・ゲレロに挑発されて、ちょこっとリングに上がっただけだったが、2日目に今度はJBLに挑発されて、遂にチョップ爆発! カンフー・ポーズもバッチリ決めてくれた。この時、私の頭の中には、かつてのテーマ曲『ライディーン』がこだましていたのである。

 エディもJBLも日本マット事情通だけに、リッキーがかつてスーパーアイドルとして日本で人気を博していたことを知っていたのだろう。何とも粋な演出をしてくれたと思う。

 なぜ、私がリッキーにイレ込んでいるかというと…彼が初来日した1980年当時、アメリカン・プロレスに夢中で、リッキーはまさしく“まだ見ぬ強豪”だった。この年の春からゴングでアルバイトしていた私は、リッキーが全日本の最強タッグに来日するや、密着取材。

 リッキーは日本人とのハーフ(母親が京都出身)のためか、陽気なアメリカ人といった感じではなく、ちょっとシャイな人。日本の血が入っているとはいっても、日本語はまったく話せなかったが、私の今よりもいい加減なブロークン・イングリッシュに付き合ってくれ、パートナーのジム・ブランゼル(元AWA世界タッグ王者=この人も気さくでいい人だった!)と一緒に取材と観光を兼ねて東京タワーに行ったりしたものだ。

 あれから25年経ったリッキーは、自慢だった黒髪はグレーに、しかも薄くなって(人のことは言えないが…)、あのビルドアップされた体も太くなっていたが、そのアクションは健在! 52歳になった今も、私にとってリッキー・スティムボートは、あのリッキー・スティムボートのままなのだ。

 

投稿者 maikai : 13:34 | コメント (0)

2005年07月03日

今回のWWE日本公演は成功か?失敗か?

 7月1日~2日のさいたまスーパーアリーナにおける『WWE SUPERSHOW』の取材に追われてダイアリーを更新できずにいたが、このビッグイベントに触れないわけにはいかないだろう。

 まず客入りだが、これまでのプラチナ・チケット状態がウソのように初日=9500人、2日目=12500人の寂しい入り。これにはいくつかの要因がある。まずフジテレビが春に放映を打ち切って地上波がなくなったため一般の人に浸透しなかったこと。4月に誕生した若き2大王者バティスタ、シーナの知名度がまだ高くないこと。本国アメリカでトレードの真っ最中ということでストーリーラインがしっかりしていないこと…などなど、考えると次から次へと出てくる。

 ただ、今回の集客だけを見て失敗だったと判断するのは早計だ。それは、さいたまスーパーアリーナという器で2日連続で興行が打てる日本の団体がどれだけあるのかを考えれば、WWEのパワーが分かろうというもの。招待券も出ただろうが、あの盛り上がりを見ると、純粋にWWEが好きな人が集まったと好意的に解釈していいと思う。

 内容的にも濃かったし、WWEの底力、緻密な戦略を見せつけられた。今は本当に過渡期…新時代を確立するための“生みの苦しみ”の時期だと思う。そのあたりについては水曜日更新のプロレスコラムでジックリと書かせてもらいます。

投稿者 maikai : 12:41 | コメント (0)